ミャンマー (ビルマ)は、東南アジアに位置する共和制国家。1989年ま での名称はビルマだった。インドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。首都はネピドー(旧首都はヤンゴン)。ミャンマーの(国旗)
国歌 : 我、ミャンマーを愛さん
ミャンマーの位置
公用語 .......................................... ビルマ語
首都 ........................................... ネピドー
最大の都市 ................................. ヤンゴン
政府
国家元首 ................................... タン・シュエ (国家平和発展評議会議長)
首相 ..................................... テイン・セイン
面積
総計.............................................. 676,578km²(40位)
水面積率...................................... 3.06%
人口
総計(2008年).............................. 50,020,000人(25位)
人口密度...................................... 75人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)............................... 29兆9,766億[1]チャット
GDP(MER)
合計(2008年)............................... 271億[1]ドル(108位)
GDP(PPP)
合計(2008年)............................... 682億[1]ドル(57位)
1人当り.......................................... 1,159[1]ドル
独立
- 日付 イギリスより
1948年1 月4日
通貨................................................... チャット(MMK)
時間帯............................................... UTC (+6:30)(DST: なし)
ISO 3166-1......................................... MM / MMR
ccTLD ................................................ .mm
国際電話番号.................................... 95
国名
正式名称のビルマ語表記は、右の表の国旗の上を参照。ラテン文字転写(一例)は、Pyidaungzu Myanmar Naingngandaw(ピダウンズ・ミャンマー・ナインガンドー)。通称は、Myanma Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。
1989年以降の公式の英語表記は、Union of Myanmar(ユニオン・オブ・ミャンマー)。通称は Myanmar。
1989年以降の日本語表記は、ミャンマー連邦。通称は、ミャンマー。
1948年から1974年までビルマ連邦、1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国(公式の英語表記はSocialist Republic of the Union of Burma )1988年から1989年まではビルマ連邦。通称は、独立以前から一貫して、ビルマ。漢字で緬甸と表記され(読みは「ビルマ」)、緬と略された(読みは「メン」。泰緬鉄道など)。日本軍統治(大東亜戦争、太平洋戦争)の間通称にされる。緬甸は、中国語からそのまま輸入されたもの。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。
1989 年6月18日に軍事政権は、国名の英語表記を、Union of Burma(ユニオン・オフ・バーマ)からUnion of Myanmarに改称した。軍事政権が代表権を持つため国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。また日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続けるマスコミもある。アウンサンスーチーやNCGUBなど軍事政権の正当性を否定する側は、改名が軍事政権による一方的なものだとし、英語国名の変更を認めていない。タイの英字紙、英BBC、「ワシントン・ポスト」などの有力英語メディアの一部、および主要な人権団体は「Burma」の呼称を続けている。アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア政府などは「Burma」としEUは「Burma」と「Myanmar」を併記している。
ビルマ語では「ミャンマー」も、英語のBurma(バーマ)の由来となった「バマー」も同じ意味の言葉であり、前者が文語的、後者が口語的に使用されることが多いという違いがあるだけで、国民は特に意識することなく併用している。いわば「にっぽん」と「にほん」の違いのようなものである。正式名称としては、独立以来ずっと文語的な「ミャンマー」の方を使用してきており、1989年の英語表記変更によって内外の呼称が統一化されたことになる。
歴史
ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11 世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。
ビルマ王朝
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、モン族とピュー族の城砦は9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ族が無人の地となったエーヤーワディー平原(ミャンマー)に侵入してパガン王朝を樹立した。バカンは最初小さな城市であった。アノーヤター王(在位1044年 - 1077 年)の時に王都になった。パガン王朝は13 世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人によるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18 世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。
イ ギリス統治時代
コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする英緬戦争で敗れて、1885年に滅亡する。1824 年から1826年にかけて戦われた第一次英緬戦争では、ビルマがインドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求、イギリス側が拒否すると武力に訴えたが敗れた。イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争では、ビルマは国土の半分を失い、1858年から1861 年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都するが、1885年の第三次英緬戦争で王朝は滅亡し、1886年に、イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる。ティーボー・ミン国王 (Thibaw Min) と王の家族はインドのゴアに近いラトナギリに配流され、その地で死亡した。
ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中に始まり、世界大恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年にはタヤワディ地方で、農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。
1937 年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になる。1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐(ビルマ戦役の始まり)し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。その後、インパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は1945年3 月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。現ミャンマー連邦政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948 年としており、ビルマ国との連続性を認めていない。ミャンマー国軍は1942年のビルマ独立義勇軍建軍をもって国軍建軍としている。
独立
1948年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立するが、直前の1947年7 月19日にアウンサンは暗殺された。初代首相には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行い、ビルマ共産党は政権を離脱するなど、政権は当初から不安定な状態にあった。1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国連で中華民国と米国の策動に抗議した。また一方でシャン州一部に国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍勢力を一掃した。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党が麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
軍事政権時代
ネ・ウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962年に軍事クーデターを起こす。 ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)の最高指導者として、1988年まで軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、同将軍は7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に軍部がクーデターにより政権を掌握する。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持をはかった。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1990年5 月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。軍事政権は1994年から2007 年にかけて、新憲法制定に向けて基本原則を審議する国民会議を断続的に開催してきた。2008年5 月10日及び同月24日に新憲法案についての国民投票が実施、可決された事で、政権の主張する民主化ロードマップは新たな段階へと進んでいる。
2005 年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月10日に正式に行政首都ネピドーへの遷都を公表した。2007年9 月18日、燃料の値上げを背景とした仏教僧による大規模な反政府デモが行われ、参加者は数日のうちに数万人の規模に膨れ上がった。それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト長井健司を含め、多数の死傷者を出した(2007年ミャンマー反政府デモ)。
2010 年2月13日、政府は、最大野党・国民民主連盟(NLD)のティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した。同氏は、2003年5月から拘束されていた。
2010 年2月15日、国連人権理事会のキンタナ特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウン・サン・スーチーとの面会を求めた。昨年2月以来3 度目の訪問である.
政治
国家元首は、国家平和発展評議会 (SPDC) 議長。国家平和発展評議会は、1988年9 月18日のクーデターにより国家権力を掌握した軍事政権が創設した国家法秩序回復評議会 (SLORC) を、1997年11月15日に改名した組織。立法権と行政権を行使する。首相は、評議会メンバーの1人で行政府の長ではなく、政治的影響力はさほどないと 思われる。 ネ・ウィン将軍が、1962年に軍事クーデターを起 こし、憲法と議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いている。1998年にも、民主化運動が高揚した時に、軍事クー デターを決行して 1000人以上の国民を虐殺し、弾圧を加えた。 現在活動を停止させられている議会は、一院制の国民議会(英語でPeople's Assembly、ビルマ語でPyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。485議席。議員は、民選で任期4年。前回選挙は、1990年5 月27日に投票が行われ、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) 392(81%)、シャン諸民族民主連盟 (SNLD) 23を獲得、国民統一党 (NUP) 10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けている。その為、NLDなどの反軍事政権勢 力は、1990 年にビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を組織し、軍事政権に対抗している。政党については、ミャンマーの政党を参照。1993年新憲法制定のための国民会議が招集されたが、国民民主連盟 (NLD)はボイコットした。
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