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政治犯が監禁されてる限り 2010年の選挙は 信用できない

Sunday, May 30, 2010

中国大使館前の行動

2010年5月30日、中国の Wen Jiabao氏が来日しました。

現在中国政府は ビルマの軍事政権を支援してますので、

それを中止させるために、東京にある中国大使館の前で
ビルマの民主化を願う在日ビルマ人達がデモしました。




チェックしてくださった 西田先生本当に有難うございました.

Sunday, May 23, 2010

ミャンマー大好きな方。一緒に活動しませんか?

協会報の「若手編集委員」募集!!<関西地区>

今、社団法人日本ミャンマー友好協会報の企画・編集に、ボラン ティアで参加していただける若手編集委員を数名募集(男女を問いません)しています。関西在住で、ミャンマー大好きな方。自分の写真や取材記事を通じて ミャンマーを広くアピールし、もっと多くの方にミャンマーを理解してもらいたいと思っておられる方。そんな方々は是非ご参加ください。


<ご希望者>
はがき、FAX,メール(問合せフォーム)にて住所、氏名、年齢、職業、電話番号、メールアドレス、ミャンマーとの機縁をご記入の上、下記宛先までご連絡ください。

<連絡先>
社団法人日本ミャンマー友好協会/事務局 

〒604-8222 京都市中京区観音堂町466 ジュネス四条烏丸 1F
TEL:075-254-7280   FAX:075-254-7280 


Friday, May 21, 2010

Monday, May 17, 2010

ミャンマー写真展 ~子どもたちの夢~


akarisuzuki323 — April 25, 2010 — 地球市民の会の活動地、ミャンマーの様子を紹介します。
心がほっと温まる感動ストーリー。

原宿のタイの祭り



今日は東京、原宿に行われる タイのお祭り(マーケット)に初回に 遊びに行きました。
いるんな タイのトラディショナル 食品や、お土産が 売ってました。タイ人だけでわなく
日本じんも様々な外国人がいらっしゃたんですよ。とっても 賑やかで、食べ物も美味しかった。
疲れたけど楽しかった。チャンスが あれば ミャンマーのお祭りも 日本でそうみたい
やって欲しいんです。でも日本に暮らしてるミャンマー人って タイ人ほうどは 人数もないし、
力もありませんのでそうみたいまでは 残念ですが まだまだできないと思います。

Friday, May 14, 2010

ミャンマーの歴史 (概要,概説)

ミャンマー (ビルマ)は、東南アジアに位置する共和制国家。1989年ま での名称はビルマだった。インドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。首都はネピドー(旧首都はヤンゴン)。

ミャンマーの(国旗)


国歌 : 我、ミャンマーを愛さん
ミャンマーの位置

公用語 .......................................... ビルマ語
首都 ........................................... ネピドー
最大の都市 ................................. ヤンゴン

政府
国家元首 ................................... タン・シュエ (国家平和発展評議会議長)

首相 ..................................... テイン・セイン

面積
総計.............................................. 676,578km²(40位)
水面積率...................................... 3.06%

人口
総計(2008年).............................. 50,020,000人(25位)
人口密度...................................... 75人/km²

GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)............................... 29兆9,766億[1]チャット
GDP(MER)
合計(2008年)............................... 271億[1]ドル(108位)
GDP(PPP)
合計(2008年)............................... 682億[1]ドル(57位)
1人当り.......................................... 1,159[1]ドル

独立
- 日付 イギリスより
1948年1 月4日

通貨................................................... チャット(MMK)
時間帯............................................... UTC (+6:30)(DST: なし)
ISO 3166-1......................................... MM / MMR
ccTLD ................................................ .mm
国際電話番号.................................... 95

国名

正式名称のビルマ語表記は、右の表の国旗の上を参照。ラテン文字転写(一例)は、Pyidaungzu Myanmar Naingngandaw(ピダウンズ・ミャンマー・ナインガンドー)。通称は、Myanma Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。
1989年以降の公式の英語表記は、Union of Myanmar(ユニオン・オブ・ミャンマー)。通称は Myanmar。
1989年以降の日本語表記は、ミャンマー連邦。通称は、ミャンマー。
1948年から1974年までビルマ連邦、1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国(公式の英語表記はSocialist Republic of the Union of Burma )1988年から1989年まではビルマ連邦。通称は、独立以前から一貫して、ビルマ。漢字で緬甸と表記され(読みは「ビルマ」)、緬と略された(読みは「メン」。泰緬鉄道など)。日本軍統治(大東亜戦争、太平洋戦争)の間通称にされる。緬甸は、中国語からそのまま輸入されたもの。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。

1989 年6月18日に軍事政権は、国名の英語表記を、Union of Burma(ユニオン・オフ・バーマ)からUnion of Myanmarに改称した。軍事政権が代表権を持つため国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。また日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続けるマスコミもある。アウンサンスーチーやNCGUBなど軍事政権の正当性を否定する側は、改名が軍事政権による一方的なものだとし、英語国名の変更を認めていない。タイの英字紙、英BBC、「ワシントン・ポスト」などの有力英語メディアの一部、および主要な人権団体は「Burma」の呼称を続けている。アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア政府などは「Burma」としEUは「Burma」と「Myanmar」を併記している。

ビルマ語では「ミャンマー」も、英語のBurma(バーマ)の由来となった「バマー」も同じ意味の言葉であり、前者が文語的、後者が口語的に使用されることが多いという違いがあるだけで、国民は特に意識することなく併用している。いわば「にっぽん」と「にほん」の違いのようなものである。正式名称としては、独立以来ずっと文語的な「ミャンマー」の方を使用してきており、1989年の英語表記変更によって内外の呼称が統一化されたことになる。

歴史

ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11 世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。

ビルマ王朝

ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、モン族とピュー族の城砦は9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ族が無人の地となったエーヤーワディー平原(ミャンマー)に侵入してパガン王朝を樹立した。バカンは最初小さな城市であった。アノーヤター王(在位1044年 - 1077 年)の時に王都になった。パガン王朝は13 世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人によるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18 世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。

イ ギリス統治時代

コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする英緬戦争で敗れて、1885年に滅亡する。1824 年から1826年にかけて戦われた第一次英緬戦争では、ビルマがインドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求、イギリス側が拒否すると武力に訴えたが敗れた。イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争では、ビルマは国土の半分を失い、1858年から1861 年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都するが、1885年の第三次英緬戦争で王朝は滅亡し、1886年に、イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる。ティーボー・ミン国王 (Thibaw Min) と王の家族はインドのゴアに近いラトナギリに配流され、その地で死亡した。

ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中に始まり、世界大恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年にはタヤワディ地方で、農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。

1937 年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になる。1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐(ビルマ戦役の始まり)し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。その後、インパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は1945年3 月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。現ミャンマー連邦政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948 年としており、ビルマ国との連続性を認めていない。ミャンマー国軍は1942年のビルマ独立義勇軍建軍をもって国軍建軍としている。

独立

1948年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立するが、直前の1947年7 月19日にアウンサンは暗殺された。初代首相には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行い、ビルマ共産党は政権を離脱するなど、政権は当初から不安定な状態にあった。1949年、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国連で中華民国と米国の策動に抗議した。また一方でシャン州一部に国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍勢力を一掃した。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党が麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。

軍事政権時代

ネ・ウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962年に軍事クーデターを起こす。 ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)の最高指導者として、1988年まで軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、同将軍は7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に軍部がクーデターにより政権を掌握する。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持をはかった。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1990年5 月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。軍事政権は1994年から2007 年にかけて、新憲法制定に向けて基本原則を審議する国民会議を断続的に開催してきた。2008年5 月10日及び同月24日に新憲法案についての国民投票が実施、可決された事で、政権の主張する民主化ロードマップは新たな段階へと進んでいる。

2005 年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月10日に正式に行政首都ネピドーへの遷都を公表した。2007年9 月18日、燃料の値上げを背景とした仏教僧による大規模な反政府デモが行われ、参加者は数日のうちに数万人の規模に膨れ上がった。それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト長井健司を含め、多数の死傷者を出した(2007年ミャンマー反政府デモ)。

2010 年2月13日、政府は、最大野党・国民民主連盟(NLD)のティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した。同氏は、2003年5月から拘束されていた。


2010 年2月15日、国連人権理事会のキンタナ特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウン・サン・スーチーとの面会を求めた。昨年2月以来3 度目の訪問で
ある.







政治

国家元首は、国家平和発展評議会 (SPDC) 議長。国家平和発展評議会は、1988年9 月18日のクーデターにより国家権力を掌握した軍事政権が創設した国家法秩序回復評議会 (SLORC) を、1997年11月15日に改名した組織。立法権と行政権を行使する。首相は、評議会メンバーの1人で行政府の長ではなく、政治的影響力はさほどないと 思われる。 ネ・ウィン将軍が、1962年に軍事クーデターを起 こし、憲法と議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いている。1998年にも、民主化運動が高揚した時に、軍事クー デターを決行して 1000人以上の国民を虐殺し、弾圧を加えた。 現在活動を停止させられている議会は、一院制の国民議会(英語でPeople's Assembly、ビルマ語でPyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。485議席。議員は、民選で任期4年。前回選挙は、1990年5 月27日に投票が行われ、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) 392(81%)、シャン諸民族民主連盟 (SNLD) 23を獲得、国民統一党 (NUP) 10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けている。その為、NLDなどの反軍事政権勢 力は、1990 年にビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を組織し、軍事政権に対抗している。政党については、ミャンマーの政党を参照。1993年新憲法制定のための国民会議が招集されたが、国民民主連盟 (NLD)はボイコットした。










Thursday, May 13, 2010

スマイル@××世界の街角にあふれる笑顔

毎日新聞の記者たちが世界中を歩き、そこで出会ったすてきな笑顔を10年も、お届けします。
出口の見えない不況が続いていますが、笑う門には福きたるといいます。明るく、楽しい時はもちろん、どんなにつらく、厳しい時でも笑顔を忘れな い。そんな人々の笑顔を今年もご覧になり、みなさんの顔にも笑顔が浮かぶことを願っております。
下の一覧にあるサムネイルをクリックすると、大きな画像で見られます。
ベトナム■ハノイの夜市に家族と来たハーちゃん(2)。お母さんにおもちゃを買ってもらって、はしゃぎっぱなし。
【篠田航一】



<ミャンマー>東部ミャワディで、自転車タクシーを営むウアラミさん(43)。「かぶっている緑の帽子は、バン ブー・ハットさ」【吉富裕倫】
<ミャンマー>東部ミャワディで、上半身裸でサッカーをして遊ぶニリンタ君(12)。「将来はサッカー選手になり たいね」【吉富裕倫】
 <ミャンマー>東部ミャワディの市場で、器用にミシンを動かして服を仕立てるウバソさん(47)。「もっと景気 が良くなってほしいね」【吉富裕倫】



Tuesday, May 11, 2010

よろしく 御願い申し上げます。

日本政府と ビルマのデモに支援して下さってる NGO 主の皆様へ、
現在のビルマの 軍事政権の内閣の准軍 Aung Thein Lin さんという人は ヤンゴン都長(Yangon City Governor)として 国民に いろいろな 方法で迫害しています。
現在のビルマの軍事政権は2007年9月になりました お坊さん達に 残酷な迫害をして、日本人である 長井健司カメラマン{50歳)が軍政府のせいで亡くなった件にも 無視したし、 2008年の ナギス サイクロンのせいで困った国民にも無視してちゃんと 守らないし、ス チーさんの 自宅監禁の延長も、2010年の発砲的な不統一選挙の事などが日本の政府が十分ご存知してますと思います。
それに、ス チーさんに対して日本政府は 自宅監禁の延長を止めてという 頼みにも無視してた政府です。それに、政治犯とス チーさんに 釈放して下さいとう 日本政府の 頼みにも 全然無視してた 軍事政権です。それに関して 日本政府は
ビルマの軍事政権にがっかりましたと書いてた ニュースも聞きました。ビルマの 国民に関しての日本政府の 御気持ち、
御心本当に感謝致します。
しかし、現在、そんな軍事政権の内閣である准軍 Aung Thein Lin さんの娘さん(名前 Su Myo Thwe)は 2005年から日本政府の支援金らしいで 日本に留学してるとビルマのデモ活動行動グルプから 写真の保証で 具体的な情報が出て来て ものすごく びっくりしました。
彼女は東京海洋大学で 海洋バイオ学習で2008年で修士課程で卒業しましたと聞きました。現在は博士に続けてると聞きました。
ビルマ軍事政権の内閣である 准軍 Aung Thein Lin さんの娘さん(名前 Su Myo Thwe)に 日本で 留学生として 勉強させてる事は 悪い軍事政権に 支援してることに なってしまいましたと 思います。もし彼女は 勉強が終わって
帰国したら ビルマで 今の悪い軍事政権が 長く続けるようにするしかないと 思います。
私には 日本政府と 彼女に関係がございます 担当の方々に 一つの 願いがしたいです。ビルマの国民の筋力、筋力などを 勝手に使って無駄に使ってる そういう 軍事政権の仲間である 彼女について すべての情報を 調べ出発て頂いて ビルマの国民の人権に守るようになるために 彼女に支援して下さってる事を お止めになって頂けませんか。
よろしく 御願い申し上げます。 
私の願いは 自分のためにでわなく すべてのビルマの国民のために、私の国のために 皆の変わりに願いを致しました。
ビルマの国民や、デモ活動行っていおります すべてのビルマの人々が日本政府の本当の御気持ち、御力、御協力のどを
正しく 分かるように精一杯 頑張って行くと思います。 
謹んで、
Aye Nandar Aung
エ ナンダー アウン
ビルマのデモ行動者

准軍Aung Thein Lin の娘さん Su Myo Thweさん (ス ミョ トイエーさん)

スー・チーさんと米国務次官補会談 軍政を批判

ヤンゴンで10日、キャンベル米国務次官補(右)と面会したアウン・サン・スー・チーさん(中央)=ロイター

 
【バンコク=高野弦】キャンベル米国務次官補は10日、ミャンマー(ビルマ)の軍事政権幹部や民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんらと個別に会談した後、声明を発表し、年内に予定されている総選挙について「(このままでは)選挙は国際的な正当性を欠く。政権側に早急な措置を求める」と述べた。事実上スー・チーさんが締め出されることになる総選挙の結果は、受け入れられないとの認識を示したものだ。

キャンベル氏は9日に首都ネピドーでミャンマー外相らと会談。10日はヤンゴンでスー・チーさんや、解党になったスー・チーさん率いる国民民主連盟(NLD)の幹部らと個別に会談した。

キャンベル氏は「不幸にも現政権はカギとなる関係者と話し合うことなく、単独で選挙を行う道を選んだ」と軍政を批判した。

NLD幹部は、キャンベル氏に対して総選挙の結果を認めず、軍政により厳しい態度で臨むよう求めたことを明らかにした。

Friday, May 7, 2010

Thursday, May 6, 2010

ミャンマー・野党NLDが最後の集会


ミャンマーの民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんが率いる最大野党NLD(=国民民主連盟)は、近く非合法化されるのを前に5日、最後の集会を開きました。
スー・チーさん率いるNLDは5日、最大都市・ヤンゴンの本部事務所でスー・チーさんの誕生日を前倒しで祝う集会を開きました。現在も自宅軟禁下に置かれているスー・チーさんの誕生日は来月19日ですが、この日の集会ではNLDや支援者から服役中の政治犯の子どもたちに奨学金が贈られました。
ミャンマーでは今年、20年ぶりとなる総選挙が実施される予定ですが、NLDはすでに選挙のボイコットを決めています。
NLDは、軍事政権が新たに制定した法律に基づく政党登録をしていないため7日に自動的に解党、もしくは非合法化される見通しで、この日が最後の集会となりました。5日付のミャンマー国営紙によると、これまでにテイン・セイン首相率いる連邦団結発展党など24の政党が登録を終えたとされ、軍政は着々と選挙への準備を進めています。(06日01:34)

ミャンマーNLDが解党 最大の民主化勢力消える


【バンコク=山本大輔】1980年代末からミャンマー(ビルマ)民主化闘争を率いてきた野党「国民民主連盟(NLD)」の解党が6日、決まった。年内予定の総選挙に向けた政党登録期限までに登録申請を出さず、政党資格を失った。

 アウン・サン・スー・チーさんを象徴に軍事政権と対峙(たいじ)してきた最大の民主化勢力であるNLDの選挙不参加、解党が決まったことで、国民が民主化の希望を託す最大の受け皿が失われたことになる。

 情報筋によると、7日以降、NLDの政党活動や党員の政治活動は違法とみなされ、摘発の対象にもなるという。

 NLD広報担当者らによると、自宅軟禁中のスー・チーさんは6日までに、党名が記された看板や党旗はそのまま残すように指示。NLDは政党ではなくなるが、政治犯として獄中にある民主活動家らの家族支援やエイズウイルス(HIV)感染者らを支援する社会奉仕団体として活動していくという。

<ミャンマー>総選挙はNLD抜きに 7日午前0時で解党

5月6日19時52分配信 毎日新聞

 【バンコク西尾英之】ミャンマーで今年20年ぶりに行われる総選挙に参加するための政党登録が6日締め切られた。民主化運動指導者、アウンサンスーチーさん(64)率いる最大野党「国民民主連盟」(NLD)は手続きを行わず、7日午前0時をもって解党となる。総選挙は、90年の前回総選挙で圧勝した同党抜きで行われることが確定した。

 NLDは5日、最大都市ヤンゴンの党本部で解党前の最後の集会を開いた。解党処分は受け入れるが、今後も民主化闘争を続け、本部に掲げる看板や旗は残す方針という。

 同国の軍事政権は3月、政党登録法など選挙関連法を制定。総選挙に参加する政党に5月6日までに選挙管理委員会への登録を求める一方で、過去に有罪判決を受けた人物を党員として登録することを禁じた。

 スーチーさんの影響力を恐れる政権が露骨に「スーチー外し」を図ったもので、NLDはスーチーさんを排除して選挙に参加するか、政党登録せずに法の規定で解党処分となるかの選択を迫られた。結局、スーチーさん自身の意向もあって、NLDは3月末に選挙参加を断念した。

 国際社会は総選挙について「自由、公正で誰もが参加する」形での実施を求めたが、NLDの不参加で国際社会が「正当に行われた」と認める可能性は極めて低くなった。

 NLDは88年にスーチーさんらが中心となって創設。90年の前回総選挙では民主化勢力として全議席の8割以上を獲得する地滑り勝利を収めた。軍事政権は選挙結果を受け入れず政権に居座り、スーチーさんや幹部を繰り返し収監や自宅軟禁処分とするなど弾圧を続けてきた。

Wednesday, May 5, 2010

ミャンマー首相ら、政党登録を申請

ミャンマー国営放送は29日、テイン・セイン首相ら軍事政権の閣僚らが、今年行われる総選挙に向け、政党登録を申請したと報じました。

 ミャンマー国営放送は29日、軍事政権のテイン・セイン首相を党首とするUSDP=連邦団結発展党が政党としての登録を選挙管理委員会に届け出たと報じました。

 USDPは軍事政権が設立した組織で、2500万人の会員数を誇る「連邦団結発展協会」が組織を変えて、いわば「軍人の受け皿政党」となったものとみられています。

 ミャンマーでは今年秋にも20年ぶりとなる総選挙が行われる予定で、USDPの党員となっているテイン・セイン首相ら閣僚らは、出馬準備のため、今週、軍籍を離脱していました。

 民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさん率いる最大野党NLD=国民民主連盟は、政党登録は行わず、総選挙をボイコットすることをすでに表明しています。

 このため、軍が総選挙後も権力維持に向け、着々と準備を進める一方で、民主化勢力を排除する動きに、国際社会の批判が高まっています。
TBSニュース

Tuesday, May 4, 2010

首相や閣僚が軍退役 ミャンマー、総選挙の立候補準備か

2010年4月27日23時9分(朝日新聞)

【バンコク=山本大輔】ミャンマー(ビルマ)軍事政権のテイン・セイン首相ら閣僚23人は26日、軍を退役した。関係筋が27日、明らかにした。軍政が年内に実施予定の総選挙に向けて制定した選挙関連法では公務員の被選挙権を認めておらず、立候補するには軍籍を離れる必要がある。選挙に向けた準備が本格化し始めたと受け止められている。

 今回退役した23人のうち、何人が総選挙に立候補するかは不明だが、立候補する場合は、選挙活動に向けて近く閣僚職も辞めるとみられる。関係筋によると、今後は省庁幹部らも辞職し、軍政の翼賛組織である連邦団結発展協会(USDA)がつくる政党から立候補する見込みという。憲法規定で上下両院の4分の1の議席は自動的に軍人に割り当てられる。今回の動きは、残りの議席にも多くの軍・政府出身者を当選させることで、選挙後の議会を実質支配する思惑があるとみられる。

 総選挙に向けて国情を安定させるために軍政が少数民族の武装組織に呼びかけている国境警備隊への編入交渉は、28日の期限を前に小規模な交戦が起きるなど緊迫の度合いが強まっている。

 情報筋によると、政府軍は22、23の両日、同国北東部シャン州の中国国境地帯を拠点とする最大勢力のワ族を攻撃。ワ族が応戦して銃撃戦となった。南部モン州ではモン族の武装組織が編入に反発しており、政府軍との衝突を恐れた同族約300人以上が難民となってタイ国境へ逃げ出すなど混乱が始まっている。