ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘。
日本での報道では「スー・チー」「スーチー女史」などと表記されることもあるが、原語では姓名の区別なく「アウンサンスーチー」と一語で表記する(下記「名前」の節を参照)。
来歴
アウンサンスーチーはビルマの首都だったラングーンに生まれた。
1960年に母親のキンチーがインド大使に着任すると、アウンサンスーチーはデリーで学ぶことになる。1962-63年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。なお1990年には名誉フェローに選出された。 ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で研究助手を務めた後、1969-71年にはニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となる。
1972年にオックスフォードの後輩でチベット研究者のマイケル・アリスと結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。ブータン外務省研究員、オックスフォード大学ボーダリアン図書館の研究員を務める。その後1985-86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前神田外語大学長)らである。
1988年4月、ビルマに病気の母を看護するために戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された同年3月以降に激化した。同年7月には1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月 26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC。のちのSPDC―国家平和発展評議会)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟(NLD)の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。
軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし軍政側は権力の移譲を拒否した。激しい国際的な非難を招き、アウンサンスーチーは91年にノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。
1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、最終的に軍政により中止に追い込まれる。NLDは同年11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は、対抗措置として同党側委員を除名した。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。
NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と 1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。
1999年3月、夫マイケル・アリスが前立腺がんで死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。
2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが、再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らが仲介し、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まった。2002年5 月6日に自宅軟禁は解除される。その後NLDの党組織再建のため、各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声がテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で放送された。2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者が現首相のソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、三度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。同年9月に手術入院した後は自宅に移され、自宅軟禁状態となる。
2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのに伴い、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマーを訪れたイブラヒム・ガンバリ国連事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。
2008年4月、アメリカにて議会名誉黄金勲章授与法案可決。同年5月10日に軍事政権が信任選挙を強行した新憲法草案では、当初「配偶者および子供が外国人、もしくは外国の市民権を有する国民には選挙権を認めない」との条項があり、前夫が外国人のアウンサンスーチーの被選挙権を事実上剥奪していた。しかし、諸外国の抗議もあり、軍事政府はこの条項は撤回。同月23日、アウンサンスーチーは事前投票したと伝えられた。
2009年5月、アメリカ人の男が自宅に侵入したのが軟禁条件違反に当たるとして、「国家転覆防御法」違反の罪で起訴される。5月18日、ヤンゴン市・インセイン刑務所内の裁判所で裁判が始まった。規定では有罪なら禁固3-5年が科せられる。自宅軟禁の最長期限は6年であるから、同月末を迎えると軟禁が解かれる予定だった。同日、スー・チー率いる野党・国民民主連盟(NLD)が刑務所周辺で抗議行動を行った。17日の前日には、ニコール・キッドマン、ブラッド・ピット、デビッド・ベッカムら著名人44人が、アウンサンスーチーの訴追に反対し、解放を求める共同声明を発表した。26日午前、タン・シュエをトップとする軍事政権は軟禁期限は同年11月との声明を出し、アウンサンスーチーと弁護士にも軟禁解除を伝えた。その上で8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦を付けて再度の軟禁状態に置いた。侵入者のアメリカ人は禁固7年の実刑判決を受けた。
2010 年1月21日、軍事政権のマウン・ウ内相が地方の会合でアウンサンスーチーについて「軟禁期限となる11月に解放される」と述べていたことが分かった。また、同内相は、最大野党国民民主連盟 (NLD) のティン・ウ副議長も2月に釈放されると語った。
名前 [編集]
アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取って、付けられたものである。
ミャンマーに住むビルマ民族は性別に関係なく姓を持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割することはない。したって、彼女のことを「スー・チー」「スーチー」などと呼ぶのは実は誤りとなる。ただし日本の新聞や報道などでは便宜上短い表記を使うことがほとんどとなっている。
なお年配の女性につける「女史」に相当する敬称「ドー」(Daw) をつけて「ドー・アウンサンスーチー」ということはある.
* 『ビルマからの手紙』 アウンサンスーチー 著、土佐桂子・永井浩 共訳、毎日新聞社、1996年12月 ISBN 978-4-620-31147-0 (毎日新聞・Mainichi Daily Newsでの連載を単行本化)
* 『アウンサンスーチー演説集』 アウンサンスーチー 著、伊野憲治 編訳、みすず書房
逸話
* アウンサンスーチーがいつも髪に差している鮮やかな花の髪飾りは、再会することなく死別した英国人の夫とかつて誕生日に贈りあった品種。彼女にとってこれをつけることが無言の抵抗の証となった。
* ジャズ・ミュージシャン、作曲家であるウェイン・ショーターが盟友ハービー・ハンコックとのデュオ・アルバム「1+1」を1997年に発表したが、このアルバムに収録されている「アウンサンスーチー」はアウンサンスーチーに捧げた曲であり、同年のグラミー賞を受賞している。彼自身によると、トランスワールド航空800便墜落事故で亡くした最愛の妻アナ・マリアが「ウェイン、これはアウンサンスーチーさんに捧げるのよ。」と語りかけるのが聞こえたという。
* ロックバンドU2のアルバム「オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド」に収録されている「ウォーク・オン」はアウンサンスーチーに捧げた曲であり、2000年のグラミー賞を受賞している。この曲のインターナショナル版プロモーションビデオではボーカリストのボノが彼女のTシャツを着ている。
オックスフォード大学
ノーベル平和賞